ジュニアスキー

ジュニアアルペン競技とスキー全般についての情報ブログです。

スキー100年の歴史、これが決定版 レルヒの会が出版

スキー100年の歴史、これが決定版 レルヒの会が出版

2011年1月8日 朝日新聞

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日本のスキーの歴史を再検証した本

 上越市高田で初めてスキーを指導したオーストリア・ハンガリー帝国の軍人レルヒ少佐の功績をたたえる「レルヒの会」(小堺昭一会長、会員110人)は、今年のスキー発祥100周年を記念し、「日本スキー・ほんとうの源流」を出版した。スキーの歴史を正確に残すのが目的といい、多くの資料から、「スキーの日」とされる1911(明治44)年1月12日のスキー講習会などの詳細を伝えている。

 同会によると、従来のスキーの歴史に関する書籍や論文には、細部に誤った記載や未確認の内容があったという。

 「ほんとうの源流」の執筆に当たったのは、同会会員で日本スキー史研究所代表の中浦皓至(こうじ)さん(北海道在住)。例えば、レルヒ少佐が陸軍第13師団の軍人に最初に教えた日時について、参加した軍人の回顧から1911(明治44)年1月10日とする記述が多く見られるが、師団の演習実施表や地元新聞記事などから「1月12日午後」とした。

 その翌月、県内教員を対象に開催されたレルヒ少佐による講習会については、参加した33人の氏名と所属を当時の県立公立学校職員名簿から特定。女性教師が3人参加していたことを明らかにし、「画期的なこと」としている。

 スキーの魅力を知った女性教師の1人は「(東京育ちの)自分もかくのごとくであるから、地方の婦女子なら、健康上決して害はない。否、大いに精神修養のためとして奨励する」と雑誌に書いている。「女性がスキーを始めれば一層普及する」と考えた当時の師団長・長岡外史の思惑が当たり、スキーが民間に、全国に急速に普及していった経過が記されている。

 レルヒの会の小堺会長は「史実にもとづき、後世に残せるものができた」と話す。出版した千冊は、上越市内の小中学校や県内の主な図書館に配布したほか、上越地域の書店で千円で販売している。

 また、レルヒ少佐や、スキー指導を受けた将校などの写真の絵はがきセット(10枚、500円)も作った。問い合わせは同会(025・523・3766)へ。(遠藤雄二)



この人に聞く:神鍋観光社長・和田浩司さん /兵庫

この人に聞く:神鍋観光社長・和田浩司さん /兵庫


 ◇白銀の魅力、若者に
 県内で最初にスキー場が開かれたとされる豊岡市日高町の神鍋高原。雪不足やスキー人口の減少で厳しい状況が続いてきたが、今季は舞鶴若狭自動車道の無料化で巻き返しへ期待が高まっている。人工雪で営業を始めた「アップかんなべ・みやの森コース」の神鍋観光社長、和田浩司さん(65)に意気込みを聞いた。【聞き手・皆木成実】

 ◇神鍋高原のスキー場は大正時代から続いているそうですね。
 ◆精神修養などのため、1923年に神鍋山で有志がスキーを始めたのが起源とされます。本格的な観光産業に発展したのは戦後から。神鍋観光の元となる運営会社は54年に設立され、当時は珍しかったリフトをいち早く設置しました。周囲のゲレンデも次々と整備され、活況を迎えます。映画「私をスキーに連れてって」(87年)とバブル景気が相まって80年代終わりは大ブームになりました。

 ◇近年のスキー客の状況は?
 ◆20年前は神鍋高原全体で年間約40万人あったのが、09年度は11万人と激減しました。このため名色高原スキー場は昨シーズンで廃業し、アップかんなべ、奥神鍋、万場の3カ所になってしまいました。雪不足で営業日数が短くなったことや岐阜県などの新しいスキー場との競合などが原因ですが、最も深刻なのはスキー人口の減少です。

 ◇みやの森コースは毎年、関西で最初にオープンすることで知られていますね。
 ◆以前は11月中にオープンするスキー場は関西でも数カ所ありました。人工降雪装置は電気代だけで月500万円かかるため、残ったのはうちだけです。採算はぎりぎり。運営会社は地元住民の出資なので赤字は出せません。

 ◇お客さんを増やす秘策はありますか。
 ◆オーストリア人の商社マンから「スキーヤーの裾野を広げるべき」とアドバイスを受け、初心者無料レッスンを開くことにしました。白銀の世界の魅力を若者の伝えたいのです。降雪地域の住民にとって雪はやっかいものですが、先輩たちはそれを逆手に取り、スキー場と民宿運営で地域振興を果たしました。都会から毎冬大勢のお客さんを迎えるスキー場は地元の誇りです。それを子や孫の代まで引き継いでいくのが私の務めです。

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 ■人物略歴

 ◇わだ・ひろし
 玉川大農学部卒後、帰郷し家業の民宿「おおがみ」を継ぐ。神鍋高原でスキー学校講師などを務め、87年から現職。初心者無料レッスン(スキー、スノーボード)は土日曜と祝日の午前9時~9時半受け付け。アップかんなべ(0796・45・0055)。

毎日新聞 2010年12月8日 地方版



ケーブルカー火災無念の10年

ケーブルカー火災無念の10年

笛吹・榊原さん「娘、生きていれば35歳」


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麻紀さんの写真を前に思いを語る榊原知美さん(2日、笛吹市御坂町藤野木で)

 オーストリア・アルプスで2000年11月、笛吹市御坂町藤野木の榊原麻紀さん(当時25歳)ら日本人10人を含む155人の命を奪ったケーブルカー火災は、11日で発生から10年を迎える。運行会社の責任者らは刑事裁判で無罪が確定し、遺族が責任の明確化に望みをつなぐ米国での民事訴訟も長期化。遺族の苦悩が続いている。

 写真には、アルプスの山々を背に、もう2度と見ることができない笑顔が収められている。1人足りないのは、撮影を買って出たからだという。麻紀さんの父知美さん(66)は、福島県内の遺族にもらったその写真を額に入れ、戸棚の中に大切に保管している。

 「1日も早く解決してほしいと願い続けてきたが、まさか10年も続くとは。常識では考えられない」。知美さんは、事故を巡る責任の所在がいまだ明らかにならないことに、いらだちを隠さない。

 事故発生から3年ほどは、頭痛と耳鳴りでよく眠れず、食事もあまり取れない日々が続いた。麻紀さんが「ただいま」と帰宅する夢を何度も見た。「生きていれば35歳。結婚して子供もいたかもしれない」。経営するドライブインで仕事に没頭しているときは精神的に安定しても、帰宅して一人になると悔しさが募る。

 自宅居間には、麻紀さんが好成績を修めたスキー大会やマラソン大会の賞状が所狭しと飾られている。負けず嫌いでスポーツ万能だった。オーストリアから帰国したら、実家のドライブインを手伝いながら、いずれはペンションを経営したいという夢を周囲に語っていたという。

 南アルプスの頂が白く覆われる季節には「もしスキーをやっていなければ」と無念さを抑えることはできないが、最近は「麻紀は好きなことをやれたから幸せだったのかな」とも思えるようになった。「自分が健康に過ごすことが何よりの供養になるはず」。知美さんは訴訟が決着したら、麻紀さんの最期の地に初めて足を運ぶつもりだ。

 県外の遺族も、いやされない気持ちを抱え続けている。日本人遺族会副会長で、福島県猪苗代町の会社員佐瀬倉寿さん(56)は、長男の智寿くん(当時14歳)を亡くした。「無罪判決といい、遺族の願いとは全く反対の動きが続いた10年だった」と振り返る。

 一人娘の涼子さん(当時22歳)を亡くした神奈川県鎌倉市のスキー店経営・楢原均さん(63)は日本人遺族で唯一、事故現場で11日に行われる追悼式典に出席する。「民事訴訟で私たちの望む結果が出るまで、頑張っていきたい」と話した。日本人遺族代理人の木川統一郎弁護士(東京)によると、遺族はフランスの欧州人権裁判所に刑事裁判の再審申し立てを行っているという。

(2010年11月4日 読売新聞)


以下は、Wikiからの引用です。

この内日本人犠牲者は、元全日本スキーデモンストレーター出口沖彦、福島県猪苗代町立猪苗代中学校スキー部員4名、慶應義塾大学スキー部員2名等、スキーメーカー主催のキャンプに参加中の一行であった。出口沖彦は、猪苗代中学校の生徒であった愛娘と同時に事故に遭った。

また、ドイツ人37人の中には女子モーグル代表で1999年フリースタイルスキー世界選手権デュアルモーグル女王のサンドラ・シュミットも含まれていた。


本当に無念だと思います。

何とか立ち直っていただければと思います。

霧降高原リフト人模様

高度成長期、スキーバブルから、競争者の出現、赤字転落までを、霧降高原スキー場を例に取り、取材しています。

霧降高原リフト人模様1 人生とカタクリ

2010年08月03日 朝日新聞

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日の出に輝く霧降高原・キスゲ平のニッコウキスゲ=1979年7月、写真家・高野康男さん撮影

高野康男さん(65)の転身
 カタクリとの出合いが人生を変えた。1973(昭和48)年4月末のことだ。
 その年の正月、奥日光の興業会社から日光市が営む霧降(きりふり)高原リフト事業所職員になった。スキー場のリフト運行の経験を買われての転職だ。新米職員の朝は、事業所の駐車場から運転室のある第1リフトの到着地点まで歩いて登ることで始まる。直線距離455メートル、標高差100メートル。後から来る職員は、新米が動かしたリフトで出勤となる。
 雪解け後のリフトの軌道下を歩いていると、鉄塔脇にカタクリが咲いていた。薄紫の花びらをうつむかせた姿は、「なんともいえず可愛らしかった」。翌日、カメラを携えて行くと、動物にでもやられたのか花は折れていた。「出合ったら、すぐに撮らなければ、自然は待っていてくれない」と一期一会を思い知らされた。
 常にカメラを手元に置くようになった。カメラは小学生の時、街の写真店の暗室で、現像液につけた印画紙から画像が現れる不思議にとりつかれて以来の趣味だった。中学では、友達の彼女を写真に撮り、友人の顔と合成してハート形に焼くなどの特技でクラスの人気者になっていた。
 当時のスキー場は宿泊客もとっており、職員には当直もあった。勤務後の深夜や未明にも、植物や四季折々の風景を撮りためた。
 81年、プロ写真家の登竜門ともいわれる写真展の公募審査に合格、翌年10月に東京で個展を開いた。「霧降高原の四季」と題し、自信作57点を飾った。個展をきっかけに、83年に転身。3人目の子どもが妻のおなかにいた時期で、退職金はその年の8月までもたなかったが、「カメラで生きる」気持ちを持ち続けた。
 自然を題材にした本やポスターなどを手がけ、昨年からは生涯学習施設「日光市杉並木大学校」の写真講座を受け持つ。「霧降の自然には、人生をかけるに値するものがあった。リフト事業にかかわらなければ気づかなかったことだ」と顧みる。
     ◇
 日光市の霧降高原リフトは、赤字と老朽化のため8月末に営業を打ち切り、45年の歴史に幕を閉じる。リフトに携わった人々の思いとともに、時代の波を受け続けたリフト事業を振り返る。(この連載は服部肇が担当します)


霧降高原リフト人模様2 スキー場造り

2010年08月04日

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霧降高原スキー場の全景。背後は小丸山=1973年、写真家・高野康男さん撮影

 霧降高原リフトは、1965(昭和40)年12月、日光市の市営スキー場のオープンと同時に運行が始まった。開業のうたい文句は「東京から一番近いスキー場」。
 前年冬。スキー場予定地一帯で、腰まで雪に埋もれながら棒を差し込んで積雪を測り、気温を記録した。当時は総務課税務係。本来の仕事とは別に秘書課直属の「調査隊」の一員に指名された。「半ドンの土曜午後から日曜日に、雪をかき分け、くまなく巡った」。未舗装の道の行き着いた先に小屋をかけ宿泊。2段ベッドを両脇に置いただけの造りだった。
 53年ごろ、高原の地権者17人が、集落で管理していた土地42ヘクタールをスポーツ教育施設建設に役立ててほしいと、市に寄付した。観光客誘致へ地元も市も動き、スキー場建設へと進んだ。心配は積雪が十分かどうかだった。予定地は小丸山(標高1601メートル)の南側斜面で日当たりがいい。手弁当の「調査隊」は「斜面は東南東を向いており、日照による雪解けは緩い」と報告書をまとめた。スキー場建設にゴーサインが出た。
 開業直前の秋にスキー場建設事務局員となった。「スキーコース造りで、また歩き続けました」。リフトは3基。高台まで乗客を運ぶ第1リフトを除き、第2、第3リフト周辺でコースを探った。第3リフト近くの沢をはさみ、上級者用の「キスゲコース」と、緩斜面で初心者用の「白樺(しら・かば)コース」を設定。第2リフト沿いは、山火事延焼を防ぐためカラマツ林を切り払った地形を活用して初心者用コースとした。山好きで高原一帯を歩き回った経験も生きた。
 スキー場開業の翌66(昭和41)年6月、リフトは夏の営業も開始した。高原の初夏に咲き誇るニッコウキスゲを楽しめる空中散歩が売り物になった。その年、ニッコウキスゲが満開となった1回目の日曜日のことが鮮明に記憶にある。「たまげたことが起きた」からだ。未舗装の道に、車が押しかけ、渋滞で動けなくなった。行き交う際にバスが端に寄り過ぎ、傾いたとの報告もあった。リフトは1時間待ちの大人気だった。
 人気にあやかり、日光市は当初計画になかった第4リフトを小丸山頂上付近に67年に急きょ建設、高度成長に乗ったレジャー時代を実感した。


霧降高原高原リフト人模様3 人工雪導入

2010年08月05日

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降雪機が吹き上げた雪が風に乗り、氷をまとった霧降高原の木々=1973年1月、写真家・高野康男さん撮影

 霧降高原スキー場は開業後、雪不足に泣いた。1975(昭和50)年度は営業を中止せざるを得なかった。
 日光市は77年、起死回生策として西独製の降雪機を計3千万円で4基購入。日本のスキー場の中で先駆的だった。稼働初年度となった78年、事業所長に赴任。財政係長からの起用で、公営企業として独立会計に移るため、財政の腕を買われた。だが、現場は問題が山積していた。
 人工降雪を目指したゲレンデは2・4ヘクタール。「箱庭のような」広さだが、当時の上級者用の「キスゲコース」だけでも、降雪機は10台必要と見込まれていた。それが、半分以下の台数となったのは、市に予算がなかったためだ。
 台数の少なさを、事業所の職員が知恵で補う。当時の降雪機は、固定式が通常だった。それを、移動式にした。無限軌道の上に降雪機を置き、機動力をもたせた。スキーコースに放水設備を数多く設け、無限軌道で移動させた降雪機をつなぎ、コース一面に雪がまけるように工夫を重ねた。「移動した先で水を供給する消防車の原理。現場から力をもらった」と語る。
 だが、この人海戦術は初年度は失敗した。「十分な面積にまいたが、スケート場になってしまった」と振り返る。まいた水の温度が高すぎて空中で雪に変わらず、地表で氷となった。当時は、気温が零下7度なければ雪ができなかった。市水道課に協力してもらい、湧水(ゆう・すい)を事前に冷やす「クーリングタワー」を設け、零下4度でも雪を降らせることが可能になった。
 翌年からは、パウダースノーを降らせた。「人工の雪です。いつでもおいでください」。ハンドマイクを握って場内を巡り、PRにつとめた。集客のため茨城や埼玉などを回り、民家の軒先にポスターを張らせてもらった。
 別コースにも降雪を広げ、主軸リフトには2号機も造った。リフト客は3倍に増えた。在任後半の2年、それぞれ2千万円の純利益を生んだ。リフト全盛期だった。
 東京から近場で手軽さを売ったスキー場は、手軽さゆえの手狭さで、客のあきは早かった。近辺に大型スキー場ができると、冬場の経営は重荷と化した。92年、年間21万人の利用をピークに、リフト事業は93年、赤字に転落した。


豊かな自然めでる場

2010年08月11日 朝日新聞

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名前の通り、霧がかかると幻想的な表情をみせる霧降高原=1978年秋、写真家・高野康男さん撮影

 名前をもじったあだ名がある。高校球児で捕手でもあった。名物所長は「ミットさん」と親しまれた。
 リフト事業の赤字が常態化していた1999年度に就任。「スキー場は閑古鳥。夏のもうけを、冬の営業が食いつぶしている」状態だった。
 「赤字で金をかけられないから」と自ら草を刈った。第1リフト周辺の鹿食害防止用ネットは、自分もくい打ちして設置費用を軽減、1500万円はかかるとされたものを、290万円でこなした。
 高原をくまなく歩いたことが、副産物を生んだ。「白いカタクリをここで見つけたのは私が最初」。200種を誇る高原の植生や自然が身に染み込んだ。リフト乗降場近くに築山を作り、9種類のツツジなど高原を代表する植物を紹介した。リフト事業所のパンフレットの植物写真のほとんどは、所長のカメラに収まったものだ。
 豊富な自然をイベントにも活用した。2000年と01年の元旦。初日の出とともにリフトを運行した。市内から募集した100人は、快晴の初日の出に歓声をあげた。
 高原は夜空もすてきだ。「夏の大三角形が手にとれるよう」。8月に「華麗なる夕べ」と題して星の観察会を開催。参加者50人に、事業所で作ったカレーをふるまった。
 春に実施してきたニッコウキスゲの補植を秋も実施。ボランティアを募り、補植後には自分がガイドとなって山を案内した。「補植にかける人件費が浮くでしょ」
 在任の2年度とも、「収支はトントン」で、赤字にはならなかった。自然という資源を生かせたと振り返る。
 リフトはその後、赤字基調が続き04年にスキー場を休業。日光市は、8月末でリフト事業を打ち切り、約7億円かけて再整備事業に入る。標高1350メートルから1440メートルの第3リフト跡地に、遊歩道を整備。標高1450メートルから1580メートルに至る第4リフト跡地には、傾斜30度の斜面を生かした階段などを作り、11年4月にオープンする。
 「第4リフト斜面から、東京スカイツリーも見えるはずだ。自然をめでる場としても絶好。歩道などの施設を造って終わりとするのでなく、霧降の自然を発信し続けて欲しい」。豊富な自然をここに来て知り、それを生かした名物所長の注文だ。(おわり)


【銀嶺のシュプール 日本のスキー100年】

【銀嶺のシュプール 日本のスキー100年】(7-1)

2010.11.1 05:00 Sankei.Biz

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今年、日本で一番早くオープンした「スノータウンYeti」。スキーヤーらが初滑りを楽しんだ=10月15日、静岡県裾野市

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群馬県草津町の「草津国際スキー場」。80年余りの歴史のあるスキー場で、今年は12月17日にオープンする予定だ(草津国際スキー場提供)

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昭和30年代の「草津国際スキー場」の風景。ウェアに時代を感じる(草津国際スキー場提供)

 ■ゲレンデで生まれた大衆文化

 今年もスキーの季節がやってきた。富士山麓(さんろく)のスキー場「スノータウンYeti」(静岡県裾野市)が10月15日に今シーズンの営業を開始したのを皮切りに、各地でスキー場が続々とオープンし始めている。来年春ごろまで、雪山に無数のシュプールが描かれる。

 誰もが楽しめるウインタースポーツの代表選手といえるスキー。しかし日本は欧米に比べて一般に普及し、スキー人口の多い「スキー天国」であることはあまり知られていない。

 スキーは一般的に金がかかるとされ、欧米では富裕層が楽しむ“あこがれの”スポーツ。これに対し、日本では比較的リーズナブルに楽しめ、一般大衆に根ざしたスポーツとして定着している。

 日本は急峻な地形に加え、冬季には国土の約6割に当たる約23万平方キロが雪に覆われ、スキー場に適した場所が数多く存在する。また交通網が整備されて、都市部からスキー場へのアクセスが容易になったこともあり、スキーの大衆化が進んだ。

 経済発展でレジャーに対する関心が高まったことも大きかった。特にバブル景気に沸いた1980年代の後半から90年代の前半にかけては、スキーは最先端のトレンドとして広く人気を集め、ピーク時には1800万人超が雪山に押し寄せたほどだ。

 日本のスキー場には海外のスキーヤーも関心を寄せている。長野県白馬村では昨年、オーストラリア人が1万7163人も訪れ、「増加傾向にある」という。オーストラリアの人々にとっては自国のオフシーズンに楽しめるほか、日本の雪質の良さなども魅力の一つとなっている。

 また、北海道留寿都村のルスツリゾートスキー場を運営する加森観光(札幌市)は10月、中国の万龍スキー場(河北省張家口市)との業務提携を発表。加森観光はこれまでにも韓国やフランスのスキー場とも提携しており、海外のスキーヤーの取り込みを進めている。国内ではスキー人気の低迷も叫ばれているが、スキー場の質の高さは外国人の折り紙付きで、その魅力はむしろ増しているといっていい。

 日本にスキーが“伝来”して来年1月で100年を迎える。日本スキー界の100年の歩みを振り返る。


【銀嶺のシュプール 日本のスキー100年】(7-2)

2010.11.1 05:00  Sankei.Biz

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テオドール・フォン・レルヒが伝えた1本の杖で滑るスキー術を実践する女性(野沢温泉提供)

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オーストリアのスキー講師、ハンネス・シュナイダーによる指導風景。「アルペンスキーの父」として知られ、1930年に来日すると各地で指導を行った(野沢温泉提供)

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ハンネス・シュナイダーが持参し愛用したスキー(野沢温泉提供)

 ■日本スキーの祖「レルヒ少佐」が指導

 「メテレスキー(スキーを履け)!」

 日本のスキーはこの一言から始まった。

 ノルウェーで生まれた近代スキーは、19世紀後半から普及し始めた。1888年には、同国の極地探険家で科学者のフリチョフ・ナンセンがスキーを使ってグリーンランドを横断する偉業を成し遂げ、スキーの存在を世に知らしめた。

 日本とスキーの“出会い”は、それから間もないことだった。1895年には陸軍の松川敏胤大尉(後に大将)がスキー板を日本に持ち帰ったとされ、1902年に約200人が凍死する大惨事となった「八甲田山雪中行軍遭難事件」が起きると、数年後にノルウェー国王から明治天皇にスキー板が贈られた。ほかにもこのころ日本に滞在した外国人がスキーを楽しんだとの記録もある。

 スキーの黎明期を語る上で最も欠かせない人物がいる。オーストリア=ハンガリー帝国の軍人だったテオドール・オードラー・フォン・レルヒ少佐(後に少将)だ。

 レルヒ少佐は日露戦争に勝利した日本陸軍の軍事力を視察するため、交換将校として1910年に来日。新潟県高田町(現上越市)の第13師団に着任した。同少佐は近代スキーの父といわれるマチアス・ツダルスキーに当時最先端のスキー術を学んだ過去があり、山岳地帯の行軍にスキーを活用したいと考えた陸軍が指導を依頼したようだ。レルヒ少佐は13師団の兵に日本初の本格的な実技指導を行い、さらには周辺住民にも教えた。

 「メテレスキー」はスキーを学ぶために選抜された兵を前に、レルヒ少佐が初めて発した言葉だった。 

 実は陸軍側では虚勢を張り、前もって兵たちに滑り方を自己流で練習させていた。だがレルヒ少佐がこの言葉を発すると誰も従えなかったという。実際はスキーを履こうにも履き方すらわからなかったのだ。

 レルヒ少佐とその弟子たちは郵便局員などの地元住民から将校婦人まで指導し、その技術は周辺地域に広がっていくことになる。

 そのレルヒ少佐が初めて指導したのが、今から約100年前の1911年の1月12日。多くの文献はこの日をもって日本スキーの発祥としている。

 レルヒ少佐は1年後に高田を離れた後、北海道旭川市の第7師団でも指導にあたった。合計の滞日期間は2年にすぎなかったが、その後のスキー文化の興隆を考えれば果たした役割の大きさは計り知れない。日本スキー界にとって、まさに恩人といえる存在だ。


【銀嶺のシュプール 日本のスキー100年】(7-3)

2010.11.1 05:00 Sankei.Biz

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新潟県湯沢町の苗場スキー場で昨年開催されたイベント「スキーの新潟オープニングin苗場2010」。スキー発祥100周年キャラクターの「レルヒさん」を先頭にした1本杖スキーが披露された(新潟県提供)

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ミズノが販売した1962年型のスキー板の広告。大卒の初任給が1万7000円程度だった時代に、値段は5900~1万1000円と高価だった(同社提供)

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ミズノが販売していた1958年型スキー板(同社提供)

 ■最新技術紹介 ミズノ、普及に貢献

 1930年、日本のスキー界にとって重要な出来事があった。オーストリアの超一流スキーヤー、ハンネス・シュナイダーが来日したのだ。シュナイダーは日本に滞在した約1カ月の間、精力的に講演や実技指導を行った。

 「リリエンフェルトスキー術」と呼ぶレルヒ少佐のスキー術は、長いさおでバランスを取る「1本杖」の滑りだった。これに対し、シュナイダーがもたらしたのは2本のストックを使い、急峻も巧みに滑り降りることが可能なはるかに高度な技術だった。シュナイダーの指導はスキーヤーの技術向上熱を大いに刺激した。それはやがて、1956年に行われたイタリア・コルティナダンペッツォ五輪における猪谷千春選手の銀メダル獲得という、日本人初の快挙として花開くこととなる。

 シュナイダーの来日より8年前の1922年、大阪中央公会堂で日本初のスキー映画の上映会が行われた。上映された映画は「スキーの驚異」。主演したのはシュナイダーだった。数々の最新テクニックが紹介され、シュナイダーの名声を確固たるものにしたこの映画は、世界的なスキーブームをもたらし、日本でもスキーへの関心を深めるのに貢献した。

 この上映会を開催したのは、スポーツ用品メーカーの美津濃(ミズノ)だった。日本を代表する総合スポーツ用品メーカーの同社は、スキーにも深いかかわりを持ち、その普及に大きく貢献してきた。

 創業は1906年。当初は野球用品の製造販売からスタートした。スキーとの関係はその14年後、スウェーデンのサンドストラム社と総代理店契約を結んだことに始まる。

 上映会開催の背景には、スキーの底辺拡大が用具販売の拡大につながるとの考えがあったとみられる。

 上映会の1年後、創業者の水野利八はスポーツ好きで知られた秩父宮さまにヒッコリースキーを献上した。その際に秩父宮さまから「日本でこういうスキーはできないのか」と問われた水野は恐縮し、自らスキー板を製造することを決意する。その決意は固く、数々の苦労を重ねながらも4年後の1927年に独自開発のヒッコリースキーを完成させた。

 その年、ミズノは上映会と並ぶもう一つのスキー普及策に乗り出した。東京、大阪、京都、神戸の4カ所でアマチュアスキークラブを発足させたのだ。このうち大阪のクラブは今も全日本スキー連盟に登録して活動を続けている。

 スキー文化の底辺拡大には、こうしたメーカーや関係者の尽力があったことを忘れてはいけないだろう。


【銀嶺のシュプール 日本のスキー100年】(7-4)

2010.11.1 05:00 Sankei.Biz

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今冬も近畿日本ツーリストではスキー・スノーボードツアーを用意している(同社提供)

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JR東日本のスキーキャンペーン「JRSKISKI」。新幹線を利用したスキーを提案し、普及に一役買った(同社提供)

 ■手軽なレジャー ツアーが普及に一役

 「スキー場に行きたいけど車は持っていないし、場所も遠い」

 そんなスキーの“弱点”を克服し、門戸を広げるのに貢献してきたスキーツアー。その登場は戦後間もない時期だった。ミズノは1954年、同社の東京支店から草津温泉スキー場までスキーヤーを運ぶツアーを始めている。

 やがて日本が豊かになり、スキーも一般に浸透。旅行会社によるツアーも増えていく。1967年、日本交通公社(現JTB)は「エック」という商品名で蔵王・天元台スキー場を訪れるツアーを商品化。列車を使って日帰りもしくは1~2泊で手軽にスキーを楽しめるものだった。近畿日本ツーリストも1973年に名古屋近鉄バス(現名阪近鉄バス)とバス利用による信州方面へのツアーを発売した。当時は売れるかどうか確信が持てず、共同で企画したのもリスク回避のためだったようだ。だがそうした心配は杞憂(きゆう)だったようで、翌年には単独企画に乗り出している。

 その近ツーは1988年6月にスキーを中心にスポーツ関連の旅行商品を企画する子会社を設立した。スキー場を舞台にした恋を描いた映画「私をスキーに連れてって」が大ヒットしてスキーブームを巻き起こしたのがその前年。設立は時代の流れに沿ったものだった。

同社によると、1988~95年には首都圏だけで、1日40~50台のバスがスキー場に向け出発。バスが当日まで確保できないこともあった。宿も同じで、強力なコネを持つ大手旅行会社でも確保は至難の業。人気の高い志賀高原スキー場へのツアーでは、客を周辺スキー場近くのホテルに宿泊させてシャトルバスで運ぶという、苦肉の策をとったことも。

 そんなスキー人気も1990年代後半に入るとレジャーの多様化や景気低迷を背景に下火となる。「レジャー白書」によると、1993年には1900万人近くいたスキー人口は、2007年には560万人と急減している。ただ厳しい状況はツアー内容に新たな変化をもたらしている。近ツーによるルスツリゾートスキー場へのプランは、2月上旬のハイシーズンにもかかわらず、同社がスキー場を丸ごと借り切っているため、家族で訪れてゆったり滑れるのが魅力だ。

 減り続けていたスキー人口も、2008年には690万人と前年を上回るなど、増加に転じている。自家用車を使わないスキーツアーは環境にもやさしい。「スローライフ」の浸透と合わせ、再注目されていい時期に来ている。


【銀嶺のシュプール 日本のスキー100年】(7-5)

2010.11.1 05:00 Sankei.Biz

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新作ウエアのインナー。部分的に素材の締め付け力を変え、安定した姿勢補助を可能にした(デサント提供)

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今年のバンクーバー五輪に日本代表として臨んだ皆川賢太郎選手。着用するウェアはデサントだ(同社提供)

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従来のウエアがワンピースだったのに対し、動きやすさを考え、上からジャケットを羽織るツーピースとした(デサント提供)

 ■デサント 過酷な競技「鍛錬」の場

 急な斜面を一気に滑り降りるダウンヒル(滑降)やスラローム(回転)などのアルペンスキー。ときにスピードが時速100キロを超え、100分の1秒差で勝敗が決まることも珍しくないこの競技は、選手に超人的なテクニックや強靭(きょうじん)な精神力を求める一方、選手に用具を提供するスポーツ用品メーカーにとっても「鍛錬」の場となってきた。

 今年2月のカナダ・バンクーバー五輪。日本代表の皆川賢太郎選手は、デサントが総力を挙げて開発したウエアを身にまとってスラローム競技に臨んだ。このウエアは従来と全く異なる発想の下で開発されたものだった。

 従来ウエアは、「空気抵抗をいかに減らすか」を最大の開発ポイントとしてきた。これに対して、デサントはそれに加えて選手のパフォーマンスを最大限に引き出すことを重視した。競技中の筋肉の動きや姿勢制御を効果的にサポートするウエアを目指したのだ。

その結果として生まれたのが、「e-ライナー」と呼ぶインナーウエアだ。このインナーは、部分的に締め付ける力を変えることで、姿勢を安定させるように設計されている。デサントはこれをスキーウエアのインナーとして採用。さらに動きやすさを考え、上下一体のワンピースだった以前のスーツと違い、袖のないランニングシャツとパンツを一体化したスーツに、薄いジャケットを上から羽織るツーピースタイプとした。

 「これによってワンピースの欠点だった突っ張り感がなくなり、下半身の安定性と上半身の運動性が両立できた」

 開発にあたった企画開発部R&Dセンターの板垣良彦さんは胸を張る。

 さらにこのウエアはもうひと工夫、加えてある。イルカの皮膚をヒントに開発した素材を使っているのだ。

 普段はつるつるしているイルカの皮膚は、速いスピードで泳ぐときだけ、表面に凸凹ができる。体の周辺にできる水の流れを整えて、抵抗を減らすためだ。

 そこでイルカの皮膚を参考に、一定以上のスピードが出て、しかも生地が伸びた場合にだけ表面に凸凹ができる新素材を開発。空気抵抗を減らすのに成功した。

 デサントは、ほかにもトカゲの皮膚やゴルフボールのくぼみに似た凸凹ができる素材を開発。バンクーバー五輪では、ウエアを提供したスイスチームから金メダリストも出た。

 過酷な競技が生み出すウエア技術は今も進化を続けている。


【銀嶺のシュプール 日本のスキー100年】(7-6)

2010.11.1 05:00 Sankei.Biz

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長野県野沢温泉村の「野沢温泉スキー場」のゲレンデ。一面に広がる銀世界が幻想的だ(野沢温泉提供)

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長野県野沢温泉村の「野沢温泉スキー場」。ピーク時には行列が絶えない(野沢温泉提供)

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昭和初期の「野沢温泉スキー場」。すでに食堂が出店していた(野沢温泉提供)

 ■野沢温泉 村民が育てたビッグスノーエリア

 長野県と新潟県の県境近くにそびえる毛無山(けなしやま)。「野沢温泉スキー場」(長野県野沢温泉村)は、標高1650メートルもの高さにあるその山頂から3本の尾根沿いにふもとの野沢温泉に向かって大きく広がる。標高差1085メートル、総面積785ヘクタール、最大斜度39度と、日本屈指の“ビッグスノーエリア”として名をはせている。

 この野沢温泉にスキーが伝わったのは、スキーが日本に発祥した翌年の1912年。旧制飯山中学(長野県飯山市、現飯山北高)が新潟県でのスキー講習に参加したことによるものだった。その後、23年になるとスキー愛好家の若者たちが「野沢温泉スキー倶楽部」を結成、大学などの団体客誘致に乗り出し、翌24年には法政大スキー山岳部を呼び込んだ。野沢温泉スキー場の開場だった。

 本格的なスキーリゾートとして集客力を高めていくきっかけになったのは、リフトの整備だ。50年に第1号となるリフトが完成。これは国内3番目、民間によるものとしては群馬・草津に次いで2番目だった。その後も54年には第2リフト、59年には第3リフトと次々と拡充され、発展を続けていった。

 当時は折しも高度経済成長期。レジャーの概念が浸透し始め、スキーにも人気が集まり、ファッション性や遊びの要素が求められるようになっていた。

ただその人気とともに各地では新しいスキー場がオープンし、野沢温泉にも一般企業から開発目的の土地買収やリフト建設の申し込みが相次ぐようになった。野沢温泉ではスキー倶楽部がリフト建設やゲレンデ開発・整備などスキー場経営に当たっていたが、「歴史と伝統が村外資本に撹乱(かくらん)されてはならない」と、63年にスキー場の管理経営権を村に委譲することを決定した。「村営スキー場」となった後も、79年には“東洋一”と呼ばれた全長3520メートルのゴンドラリフトが建設されるなど整備拡充が相次ぎ、現在でも国内屈指のスキー場の地位を不動のものにしている。

 しかしバブル経済が崩壊し、レジャーも多様化する中で、スキーは“冬の時代”に突入。野沢温泉スキー場も例外ではなく、2005年からは村民出資の新会社「野沢温泉」が管理運営に乗り出している。

 「日本のスノーリゾートの歴史の見える村民が育て上げたスキー場」(河野博明社長)。スキー発祥とともに歩んできた野沢温泉スキー場は、スキー100年を機にさらなる飛躍を目指す。


【銀嶺のシュプール 日本のスキー100年】(7-7)

2010.11.1 05:00 Sankei.Biz

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昭和40年代の大湯付近の風景。このころはすでにスキー客が訪れるようになっていた(野沢温泉提供)

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野沢温泉の外湯「大湯」。スキー客が冷えた体を温めにやってくる(野沢温泉提供)

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スキー博物館の館内にはさまざまなスキーやウエアなどが収蔵されており、日本のスキー史をたどることができる(野沢温泉提供)

 ■湯治場から本格リゾート地に発展

 冬になると3メートルを超す雪が積もるという長野県野沢温泉村。かつては湯治場としてにぎわいをみせたが、大きな発展をみせるようになったのは、村にスキーが入ってきてからだった。

 スキー愛好家の若者たちによる「野沢温泉スキー倶楽部」が、結成された翌年の1924年に法政大スキー山岳部を誘致して以来、鉄道網の整備も相まって村には多くのスキー客が訪れるようになった。

 さらに50年にリフト第1号機が建設されたのを皮切りに、その後もリフトの拡充整備やゲレンデ整備が相次ぎ、本格的なスキーリゾートとしての発展を目指す中、スキー客も年を追うごとに急増した。

 しかし、もとからある温泉旅館だけでは急増するスキー客の“受け皿”が足りない。このため、周辺の民家にスキー客の宿泊を頼んだ。これが“野沢温泉名物”ともいえるスキー民宿の始まりだった。

 次第に農閑期には「民宿」の看板を掲げる民家が増えていった。女性は旅館、民宿の手伝い、男性はスキー場の仕事-。村ではこれが当たり前となった。

 経済基盤が整うとともに、道路や下水道など、インフラ整備も進んだ。特に下水道では、62年に下水処理場が建設された。増大するスキー客により屎尿(しにょう)の量も増え、旅館などのくみ取りを人力で行うには限界があったことから、県内4番目の早さで下水道が整備された。
また76年には、「野沢温泉スキー資料館」がオープン。79年に「日本スキー博物館」と改称したこの施設は、スキー専門の博物館としては日本初だ。戦前、戦後のスキー用具など、1万を優に超える展示数を誇り、スキーの歴史をいっぺんに振り返ることができる。

 さらに野沢温泉スキー場は、95年にはインタースキー(世界スキー指導者会議)でメーン会場、98年の長野五輪では会場の一つに選ばれ、「野沢温泉」の名前は世界的に広がっている。これに伴い上信越自動車道や北陸新幹線が長野市まで開通して首都圏などからのアクセスも飛躍的に向上している。

 「合言葉は『雪国文化の開発は、スキーに如かず』だ」

 野沢温泉の河野博明社長はこう強調する。100年にわたりスキーとともに発展してきた温泉村は、次の100年もスキーとともに歩み続ける。


バブル期以降のスキー場の変遷

以下は、バブル期以降のスキー場の変遷を新聞記事から見たものです。

時代の流れと流行に翻弄されたスキー場の栄枯盛衰と取り残されまいとする関係者の努力が伝わってきます。

スノーボードに関しては、今となってはなぜ?という感じですが、当時はその文化と合わせて拒否感が強かったのだと思います。

変わったところ、変わらないところ、当たり前になったもの、無くなってしまったもの・・色々あって感慨深いです。


止まらないスノーボード人気 滑走制限の緩和進む /群馬

1996年12月19日 朝日新聞

 スキーシーズンがやってきた! いや、若者にとっては「スノーボードシーズン」と言ったほうがいいかもしれない。当初は「危険」「マナーが悪い」と言われ、滑走を制限されることも多かったが、今シーズンは県内にある二十九のスキー場のうち、二十三のゲレンデで滑れるようになった。少数派になったスキーヤーだけのスキー場は、キャンペーンで対抗する。
  
 数年前まで地味だった武尊牧場スキー場(片品村)は、今や「スノーボーダーのメッカ」になった。昨シーズンの入場者は、十四万人で、二万五千人増えた。九割はスノーボーダーが占めた。
 ほとんどが若者だ。一昨年からテクニックを競うワンメークジャンプ台やハーフパイプを設置し、口コミで人気が広がった。「小さなスキー場でも、ボーダーにとっての知名度は上がった」と同スキー場。今シーズンから、すべてのコースで滑べれるようになった。
 日本スノーボード協会(東京都渋谷区)によると、一九九〇年に十万人だった競技人口は、今シーズンには八十万人が見込まれている。スノーボード(板)の売り上げも急増し、矢野経済研究所(同中野区)の調べでは、出荷額は年を追って増えている。
 スノーボードを受け入れる県内のスキー場も、九四年が十七カ所だったのが、昨シーズンは四カ所、今シーズンはさらに二カ所増えた。
 大穴スキー場(水上町)は、今シーズンから受け入れる。家族連れに的を絞っていたが、「子供は休日しか集まらない」と、平日だけスノーボーダーにゲレンデの一部を開放する。表万座スキー場(嬬恋村)も「要望が多い」と、禁止から一気に全コース受け入れに転じた。
 滑走の“規制緩和”も進んでいる。丸沼高原スキー場(片品村)は、県内唯一、上達度で滑る場所を制限するライセンス制を導入している。昨シーズンの三ランクを二ランクに改め、初心者を中級者と同じ扱いにした。ほかにも「平日のみ」から「全日OK」になったり、滑れるコースを増やしたりしたスキー場は多い。
 一方で、スノーボードを締め出すスキー場は年々減っている。今シーズンは、二年前の半分だ。
 尾瀬岩鞍スキーリゾート(片品村)とかたしな高原スキー場(同)、川場スキー場(川場村)は今月下旬から、協力してキャンペーンをする。三つのスキー場を利用すると、リュックサックやTシャツが抽選で当たるもので、「スノーボーダーのいないスキー場」を前面にPRする。
 昨シーズンの尾瀬岩鞍の利用者は前年よりもやや減った。が、「スキーヤーの期待は裏切れない」と、スノーボード禁止の方針は変えないという。
  
 ○容認派VS禁止派

 武尊牧場スキー場 ここ3年ぐらいで急に増えた。スノーボードの人気は時代の流れなので、合わせている。小さいスキー場だが、ボーダーにとっての知名度は上がった。リピーターも多い。ただ、スキー客も大切なので「スノーボード場」にはなりません。
 尾瀬岩鞍スキーリゾート コース自体がスキーヤーを想定したもの。スキー客からの信頼が大きく、去年のアンケートでは「スノーボードを入れないで」との声が多かった。村内にはスキー場が8カ所ある。ボードはボード、スキーはスキーで、それぞれの楽しみがあるのではないか。
  
 ●管理者集めて事故防止会議 沼田署が初開催

 水上町藤原の宝台樹スキー場で、小学生が沢に落ちて死亡した事故で、安全対策を怠ったなどとしてスキー場の管理責任者が業務上過失致死の疑いで書類送検されたのを受けて、沼田署は十八日、沼田市と利根郡の十九のスキー場の管理責任者ら三十五人を同署に集めて、「事故防止対策会議」を初めて開いた。
 同署の担当者らが、スキーヤーに危険を知らせるネットやロープ、旗などをきちんと出すよう呼びかけた。天候の変化や積雪などによってゲレンデの状況も変わることから、危険場所の点検を怠らないよう指導した。


バブルの象徴、今ピンチ(スキー場五話:その1)

2004年01月06日 朝日新聞

 お正月休みをスキー場で過ごした方も多いことでしょう――と言ってはみたものの、ここ10年、スキー事情はかなり違ってきている。レジャー白書によると、日本のスキー人口は93年の1860万人がピークだった。02年は1090万人。増え続けるスノーボード人口を足し合わせても、バブル崩壊後、ほぼ減少傾向が続いている。
 まさにスキー人口がピークの93年、千葉県船橋(ふなばし)市に現れた屋内スキー場「ザウス」も昨年、取り壊されてしまった。グルメ本や漫画を作る「ホイチョイ・プロダクション」の原作で話題となった映画「私をスキーに連れてって」、ミーハースキーヤーのバイブル「極楽(ごくらく)スキー」は、ともに87年、バブルの頂点目前の作品だった。
 明るい材料は、スキー全盛期に20代だった世代が、そろそろ子供を連れてゲレンデに回帰(かいき)する傾向がうかがえる点。実際、託児所付きのスキー場も珍しくなくなってきた。一方、今の15~25歳の世代は、さっぱりスキーをしなくなっているらしい。
 全日本学生スキー連盟の登録者数は、ピーク時の約4千人から今年度は約2300人まで落ち込み、休部、廃部状態の大学も最近、増える傾向にある。要因について、小倉宇思(おぐらたかし)監督会事務局長は「一番はコスト。用具、合宿にかなりの額を投資するくらいなら、車を買う、海外旅行をする――という学生が増えた。中高でスキー教室を取りやめる学校が増えていることも、親しむきっかけを奪っている」とみる。
 (小西淳一〈こにしじゅんいち〉)


用具進化で快適さアップ(スキー場五話:その2)

2004年01月07日 朝日新聞

 今から6、7年前、スキー板に革命が起こった。「カービングスキー」だ。長さは一気に20~30センチも短くなり、身長より短い板が当たり前に。「男性で160~165センチ、女性なら150~155センチあたりが標準」(石井スポーツの大塚秀清〈おおつかひできよ〉次長)だという。
 短さに加え、中央部分のくびれ(サイドカーブ)も、従来に比べてかなりきつくしてあり、体を左右に傾けるだけでターンのきっかけがつかめる。「初心者が1日でパラレル達成!」などといったビデオまで出ており、結構売れているとか。
 短くなった板は着脱と持ち運びがしやすく、乗り物を利用するにも便利。大きな車ならスノーボードのように車内に積み込めるようになり、スキーキャリアの姿も減ってきた。
 スキー靴も変容を続けている。80年代に売り出された、後ろが開く「リアエントリーブーツ」は、今や店頭から消えた。今年は、内側のブーツが簡単に着脱でき、長靴のようにそれだけで歩き回れるタイプが登場。「食事や休憩(きゅうけい)の時間に足を解放し、いかに快適に過ごせるかを追求した」と、開発したサロモン事業部の担当者は言う。
 初心者では、寒い中で足を靴に締め付けられる痛みで、スキーが嫌(いや)になってしまう場合も多い。他社も、従来より外側のプラスチック部分が軟らかめで、バックルを半分にした「ソフトブーツ」などを開発している。
 より快適にスキーを楽しむ方法を追求してメーカーはしのぎを削り、用具は進化し続ける。


ボーダーとのせめぎあい(スキー場五話:その3)

2004年01月08日 朝日新聞

 最新のレジャー白書では、スキーヤーとスノーボーダーの割合は67対33。異なるシュプールを描くこの2集団の出会いで、衝突などゲレンデ事故の可能性は増した。NPO法人「スキーヤー及びスノーボーダーの安全を考える会」が昨年まとめた調査では、1シーズンの死亡・重傷事故は、80年代が10件台だったのに、スノーボーダーが増えた90年代以降は20件を超える。
 スキーヤーが減少する一方、ボーダーは増える。スキー場も営業上の理由から、次々とボーダーに門戸(もんこ)を開放してきた。
 群馬県片品(かたしな)村の「尾瀬岩鞍(おぜいわくら)スキーリゾート」は、今シーズンからボーダーにも開放。名称からも「スキー」を消して「ホワイトワールド尾瀬岩鞍」にした。
 「スキー客は、ピーク時の67万人から昨シーズンは半分以下の31万人。昨年3月、テスト期間としてボーダーに開放したが、心配したような事故も起こらなかったので」と同スキー場の入沢茂(いりさわしげる)・広報担当。
 同じ片品村の「かたしな高原」は、今や関東圏では唯一のスキー専用ゲレンデとなった。入沢良多(いりさわりょうた)・総支配人は「ボーダーのいないゲレンデで安心して子供を滑らせたいという親も多い。しばらく方針を変えるつもりはない」と話す。新潟県湯沢(ゆざわ)町の「NASPAスキーガーデン」、長野県長門(ながと)町の「ブランシュたかやま」などもスキーヤーオンリー。
 時代に合わせて共存路線をとるか、逆にスキーに絞り安全を売りにするか。ゲレンデ事情はなお流動化を続ける。


温暖化には人工雪で対抗(スキー場五話:その4)

2004年01月09日 朝日新聞

 地球温暖化のせいか雪が少なくて、年が明けないと本格営業ができないスキー場も目立つ。降らないなら降らせてみよう――というのが人工降雪機(こうせつき)だ。
 霧状に勢いよく吹き出した水が、外気に触れて雪に変わる仕組みが主に使われる。気温が高めの時は水の量を減らさないと雪にならない。ガンタイプ、固定式、自走式などいろいろあるが、1台1千万円近くする。
 日本のスキー場で導入されたのは米国製の輸入品が先駆(さきが)けで、30年ほど前から。73年の開業当時から導入している軽井沢(かるいざわ)スキー場には今や195台もの降雪機があり、11月にオープン。気温は低いが雪は降らない気象条件にある同スキー場は、まさに人工雪が生んだわけだ。
 降雪機が使えるのは「マイナス2度以下」に冷え込む場所だけ。条件に満たないスキー場には「造雪機(ぞうせつき)」という手もある。「薄く張った氷を削り、砕いて吹き出す巨大かき氷機。経営体力があるスキー場でないと導入してくれない」と、トップメーカー・樫山(かしやま)工業の北澤一彦(きたざわかずひこ)副部長。埼玉県所沢(ところざわ)市の屋内スキー場・狭山(さやま)スキー場は、この造雪機を使っている。
 雪不足とは無縁のスキー場もある。新潟県湯之谷(ゆのたに)村の奥只見丸山(おくただみまるやま)スキー場は、リフトも埋まる豪雪のため、例年同様、5日から休業中。3月中旬から再開する予定。山形県西川町の月山(がっさん)は4月にオープンする。雪が多い年は7月いっぱいまで滑ることができ、スキーと海水浴(鶴岡<つるおか>市の湯野浜<ゆのはま>あたりで)を、一日で体験することも可能だ。


「安近短」のお薦めは…(スキー場五話:その5)

2004年01月12日 朝日新聞

 スキーツアーも一般の旅行と同様、「安近短」と「個人」が最近の傾向だ。「日帰り志向が強まり、よくあった社内のスキー旅行も少なくなった」とJTBサン&サンの内山隆雄(うちやまたかお)次長。交通手段も車が増え、かつての人気のバスツアーは下火に。
 今年は年内の雪が少なめで、やや出遅れた北海道ツアー。航空会社系の代理店を中心に、各社とも往復の飛行機に宿泊、リフト券がついて、なぜか正規の往復航空運賃よりも安い。「運賃は包括(ほうかつ)旅行割引の適用でおおむね半額以下。加えて宿の協力があってこその価格」(JALツアーズの市村賢二(いちむらけんじ)マネージャー)だという。平日なら、東京発で札幌のホテルに2泊3日(2人1室)で3万円台から。
 さらに「東洋のサンモリッツ」ニセコにも足を延ばしたい。粉雪のアスピリンスノーが人気で、今シーズン、あるスキー雑誌の「読者が選ぶゲレンデ人気ランキング」で1位に輝いた。
 東北では、岩手県安代(あしろ)町の安比(あっぴ)高原がお薦め。裾広がりのゲレンデは雪質も良い。
 東京からの日帰り。電車なら上越新幹線の駅直結のガーラ湯沢(ゆざわ)は、新幹線往復にリフト券付きで平日なら1万円余りで済む。車なら中央自動車道から近い長野県の富士見(ふじみ)パノラマリゾートも穴場。晴天率も高い。
 1月12日は「スキーの日」。1911年のこの日、新潟県の高田(現上越<じょうえつ>市)でオーストリアのレルヒ少佐が日本に初めてスキーを伝えた。全国各地のスキー場でイベントも。皆さんもスキー場に足を運んでみては?


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岩谷高峰「トレーニングを再考する」4
岩谷高峰「トレーニングを再考する」5
上林卓司「センターポジション」1
上林卓司「センターポジション」2
上林卓司「センターポジション」3
上林卓司「センターポジション」4

<技術解説本・DVD>
皆川賢太郎DVD
皆川賢太郎 スキー完全上達
皆川賢太郎 最速上達メソッド
浦木健太 GSテクニック
吉岡大輔 落とすGSテクニック
生田康宏 トップアルペンテクニック
竹節一夫 アルペンテクニック

<トレーニング論>
アスリート達は本当に速くなっている?
究極の鍛錬
俊敏性練習は、俊敏性を向上させるか?
「良いトレーニング、無駄なトレーニング」
「ゴールデンエイジ理論」の不思議
運動能力と遺伝、環境
筋収縮とエネルギー

<学ぶということ>
○科学的方法論
「仮説演繹法」再び。
アイスクリームを食べると、水死する?
科学的方法論のエッセンス
○学問のすすめ
米大学における多面的・総合的な評価
稲盛和夫「伸びる人、立派になる人、いらない人」
U.S. News Best Global Universities
いま注目されるリベラルアーツ教育
いちばんやさしい教える技術
人材育成の実践
新たな高等教育機関の制度化
快楽の人生、充実の人生、意味のある人生
全てリクルートから学んだ
創造性を発揮するには?
ノブレス・オブリージュ
大学入試成績と入学後の成績
修正版:博士が100人いる村
教えるということ
のめり込む力
ダニエル・ピンク:やる気に関する科学
ダン・アリエリー:仕事のやりがい
人間万事塞翁が馬:山中伸弥
人生はその時の最適解の積み重ね
量は質を生む
高い山を築くなら、裾野を大きく広げよう
最初の3年で仕事人生の大半が決まる説
根拠なき自信
ノブレス・オブリージュ
中高生のための勉強法
自分の頭で考え、勇気を持つこと。
頑張ったらご褒美があるメンタリティ
自浄作用
いじめについて
タイガーマザーと文武両道

<その他>
インプレッサ路肩から這い上がる
美味しいコーヒーの入れ方
身近なコーヒーあれこれ
スーパーで買える美味しいコーヒー
辞めたくても辞められない
外食産業が日本を滅ぼす?
シナノ:なつかし写真コンテスト
福井県立歴史博物館:昭和のくらし
解放値の計算

<大会ルール(和訳)>
FIS競技用品規格
アルペンスキー国際競技規則(2010-11)
同 決定事項及び指導事項(2010-11)
アルペンポイントルール(2010-11)

<ポイント関連>
ポイントとは?
SAJ ポイントリスト

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プロフィール

ジュニアスキー

Author:ジュニアスキー
子供が小1の冬に家族でスキーを始め、すっかりその魅力にはまっております。小4から地元のスポーツ少年団に所属し、競技スキーを始めています。(現在中3)
ジュニアアルペン競技の情報ブログとしてスタートし、最近ではスキー全般、その他に関する話題も扱っています。
上欄のカテゴリから興味のある話題をお選び下さい。
(2009年7月25日開設)


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