寺川綾 「競技人生で初めて楽しめた」
寺川綾 「競技人生で初めて楽しめた」

ロンドン五輪の競泳でのメダル獲得数は9で、アテネ五輪の8を抜いて、戦後最多となりました。
オリンピックメジャー競技である競泳で、日本が良い成績を上げている背景には、
①競技人口が多い
小さい頃に健康のために水泳を習わせる家庭が多い。
才能がある子は、一般コースから選手コースに移るなど、ピラミッド構造が作れている。
②インフラの整備
温水プールの普及。
水泳人口が多いので、維持が可能になっていると思われます。
③水泳クラブの普及
②と③がセットになっていることが多いと思います。
どこの町にも、専任コーチがいる温水プールがあるなど環境整備ができています。
選手コースは、小学生でほぼ毎日放課後練習、中学校以上は、早朝練習も加えているようです。
これに加えて、トップレベルのコーチングにも改革があったそうです。
④本番で力を出せるコーチング
下記文中の青山は、このインタビュー記事を書いた青山さんです。
しかしアトランタ五輪本番では、ほとんどの選手が自己ベストを大きく下回りメダルゼロという結果となった。青山は大会4日目に登場。その日までメダル獲得ゼロの日本チームにとって「最後の砦」とされたが6位に終わった。選考会で出した記録は、五輪優勝のタイムを上回っていた。このレースが不振だった日本チームの象徴のように捉えられた。大会が終わると、マスコミは「惨敗」「経験不足」「精神的に弱い」と酷評する。 一方、チームとしてはメダルこそなかったものの、入賞(8位以内)は13を数えた。日本水泳連盟は、このアトランタ五輪を「次へのステップへの踊り場」と位置づけた。
実際に、この大会が日本の競泳史にとって大きな転機となった。アトランタ五輪では、力がなかったのではなく、本番で力を出せなかったのである。いかに早く泳ぐかだけでなく、いかに勝つか、いかに本番で力を発揮するか、そのプログラムを日本水泳連盟が持っていなかった。 アトランタ五輪の翌年、日本大学豊山高校教諭の上野広治が競泳日本代表のヘッドコーチに就任。「日本競泳チーム」としての改革を次々に着手する。そして、1998年パース世界選手権、2000年シドニー五輪、そしてその後の世界大会で成功例を積み重ねていく。
アトランタ五輪の日本競泳チームは、ただの失敗ではなかった。その後の日本競泳チームの発展の発端になったことは間違いない。そして、その発展する要素を数多く生み出したといえる。

ロンドン五輪の競泳でのメダル獲得数は9で、アテネ五輪の8を抜いて、戦後最多となりました。
オリンピックメジャー競技である競泳で、日本が良い成績を上げている背景には、
①競技人口が多い
小さい頃に健康のために水泳を習わせる家庭が多い。
才能がある子は、一般コースから選手コースに移るなど、ピラミッド構造が作れている。
②インフラの整備
温水プールの普及。
水泳人口が多いので、維持が可能になっていると思われます。
③水泳クラブの普及
②と③がセットになっていることが多いと思います。
どこの町にも、専任コーチがいる温水プールがあるなど環境整備ができています。
選手コースは、小学生でほぼ毎日放課後練習、中学校以上は、早朝練習も加えているようです。
これに加えて、トップレベルのコーチングにも改革があったそうです。
④本番で力を出せるコーチング
下記文中の青山は、このインタビュー記事を書いた青山さんです。
しかしアトランタ五輪本番では、ほとんどの選手が自己ベストを大きく下回りメダルゼロという結果となった。青山は大会4日目に登場。その日までメダル獲得ゼロの日本チームにとって「最後の砦」とされたが6位に終わった。選考会で出した記録は、五輪優勝のタイムを上回っていた。このレースが不振だった日本チームの象徴のように捉えられた。大会が終わると、マスコミは「惨敗」「経験不足」「精神的に弱い」と酷評する。 一方、チームとしてはメダルこそなかったものの、入賞(8位以内)は13を数えた。日本水泳連盟は、このアトランタ五輪を「次へのステップへの踊り場」と位置づけた。
実際に、この大会が日本の競泳史にとって大きな転機となった。アトランタ五輪では、力がなかったのではなく、本番で力を出せなかったのである。いかに早く泳ぐかだけでなく、いかに勝つか、いかに本番で力を発揮するか、そのプログラムを日本水泳連盟が持っていなかった。 アトランタ五輪の翌年、日本大学豊山高校教諭の上野広治が競泳日本代表のヘッドコーチに就任。「日本競泳チーム」としての改革を次々に着手する。そして、1998年パース世界選手権、2000年シドニー五輪、そしてその後の世界大会で成功例を積み重ねていく。
アトランタ五輪の日本競泳チームは、ただの失敗ではなかった。その後の日本競泳チームの発展の発端になったことは間違いない。そして、その発展する要素を数多く生み出したといえる。
- 関連記事
-
- 南部靖之「仕事は、ピュアな表現だ」 (2012/11/30)
- 「暗い話」はもうやめよう エイチ・アイ・エス会長 澤田秀雄 (2012/11/23)
- 個人競技でチームマネジメント?メダルを勝ち取ったフェンシング太田選手のリーダーシップとは (2012/11/23)
- テッド・リゲティの育ち方 (2012/11/02)
- 部員わずか2人の同好会所属だった金メダリスト (2012/10/04)
- 寺川綾 「本気で自分がやりたいこと」 (2012/10/03)
- 成功は、1万時間の努力がもたらす (2012/10/02)
- 寺川綾 「競技人生で初めて楽しめた」 (2012/10/02)
- スノーボード 成田童夢、今井メロ選手の育ち方 (2012/09/23)
- SURF&SNOW 岡田利修さんインタビュー (2012/09/20)
- 「日本スキー史 伝説の断片」ー見谷昌禧 (2012/08/25)
- ジャパンチームとしての意識 (2012/08/21)
- 世界を目指さなくなった若者 (2012/08/12)
- 川澄奈穂美を育てた、“世界一のオヤジ”の教育法とは?=女子サッカー (2012/07/29)
- 鮫島・安藤、48歳で逝った恩師に初勝利を (2012/07/26)